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Staff Blog

更新日:2016.07.22

今日の音楽豆知識 ~椿音楽教室~

~今日の音楽豆知識~
「徴兵制度を免れたシューベルト」
シューベルトは1808年にウィーン王立のコンヴィクト学寮に入りました。この学校はオーストリア貴族の子弟のために設立された学校で、寄宿制になっており小学校と8年制の高等学校の過程が授けられることになっていました。そしてこの貴族の子弟のほかにも宮廷礼拝堂での少年歌手としての資格を得た少年たちもこの学校に収容され無料で小学校と高等学校下級の授業を受けることが出来ました。
シューベルトが入ったのはこちらのほうであり、のちの「ウィーン少年合唱団」の原型となるものでした。
試験は欠員が出るごとに行われました。シューベルトの時は9月30日ごろが試験日でボーイ・ソプラノ2名とアルトが1名採用されたようです。シューベルトはソプラノで11歳の時のことでした。

その後1812年シューベルトのお母さんが亡くなり、同年のシューベルトの成績表には「変声」と書かれました。15歳の時です。本来ならこれで、ボーイ・ソプラノとしての役目を終え学寮を出なければならない
のですが、シューベルトはメールフェルト奨学金を得て、なおも学業を続けることを許されました。
この年の11月24日に兄の1人にあてた手紙には、腹が減って仕方がないから食料を少し恵んでもらいたいというくだりが見られます・・・。生活が大変だったのですね・・。

翌年の4月25日にはアンナ・クラインベックが新しい母となりました。
この母はまだ30歳という若さでしたがとてもしっかりとした人だったようで、前妻の子どもの面倒をよく見たり、寄宿舎にいるシューベルトの事を気にかけたりし、またシューベルトにお小遣いをそっと渡してくれるようなやさしいひとだったようです。

しかしシューベルトはこの年にコンヴィクト学寮をやめてしまします。前期の奨学金は受けていたため追い出されたわけではなく・・喧嘩をしたわけでもなかったようです・・

その後シューベルトは聖アンナ師範学校に入ります。
ここで10か月の研修を受け助教員の免状も得ました。それからは17歳で父親の学校に勤務することとなります。
このことについて、後にヒンダース・クッチャーの本にはこれは徴兵を免れるための処置であったろうと説明されています。 このころはナポレオンのために、各国はいずれも戦々兢々としていました。シューベルトのいた
オーストリアもその例にもれず、男子は17歳になると兵役に服さなければならなかったのです。ただし、教師だけはそれを免除されていました。その教師になるためには免状が必要だったのです。
そしてこの方法を強く主張したのは新しい母だったそうです。賢い方ですね。

しかし・・・先生としてのシューベルトは不適格だったことは周知のとおり・・・。
音楽の事しか頭にないシューベルトには教師が向いていなかったようです。
でも軍隊に入っていたらこれまたまさに不適格だったことでしょう。
敵前でも楽想がわいてふらふら立ち上がってしまった可能性もあるのですから。

この17歳の時に歌曲だけでも127曲が書かれました。
その中には「糸をつむぐグレートヒェン」や「羊飼いの嘆きの歌」なども入っています。